因伯子供学園

因伯子供学園と妙寂寺

第十二世である八雲龍震は、間引きの悪習を改めさせようと奔走していた藤岡吉平の遺志を継ぎ、坊守の八雲数枝と共に妙寂寺境内に明治39(1906)年に「因伯仏教孤児院」を創立しました。

八雲数枝は我が子と孤児院の子を分け隔てなく養育し、庶務や炊事洗濯から質屋に通っての資金調達までを献身的に行ったといいます。

現在は社会福祉法人因伯子供学園として子ども達の養育活動を続けており、妙寂寺歴代住職が法人役員を務め子ども達の健やかな成長を見守っています。

八雲 数枝

 比叡山きっての名僧と聞こえた姫宮大円と妻操との間に、数枝は明治13年11月18日、新潟県中頸城郡三郷村大字松野木の勝念寺で生まれた。幼少時代は父と共に主として京都・東京に住んだが、全くお姫様暮らしで、両国の川びらきなども屋形船で見物した。しかし、いわゆる世にいうお姫様ではなく、後にあらゆる困苦窮乏に耐え抜き、強靭な貫徹精神をもって、生涯を社会事業に捧げる力を培養していたのである。

 京都の女学校に在学中、卒業を待たず2年で八雲龍震と結婚したのは明治29年12月28日。数枝16歳。天台学泰斗姫宮家のお姫様と、いうなれば草深き山陰道、倉吉市新町、遊園山妙寂寺住職龍震との縁組は普通には考えられないことであった。

 数枝は母に伴われて倉吉に来た。そして倉吉市河原町戸嶋益蔵の父を里親として、龍震との新しい生活に入った。その頃には思いもよらない事実がいくつもあったようであるが、その一つに褥殺ということがあった。多くは家乏しく、子どもを養うことが出来ない場合、生まれたばかりの嬰児を殺してしまうのである。ムシロやコモに包んで海や川に流したり、漬物桶で圧殺したり、土中に生き埋めにしたり、又取りあげ婆さんに頼めば、婆さんはことも無く膝の下で圧殺して始末した。「マビキ」とも言い、水に流す場合は「海老すくいに出す」とも言っていた。

 河合清丸門下の奇材といわれた藤岡吉平が倉吉市西仲町にいた。彼は弘化3年丙午年生まれであった。長じて同年輩の丙午生まれの人が稀少であることに気づいてりつ然とした。丙午生まれは家に禍を招くという迷信からほとんどまぶかれたのであった。彼自身も亦生まれた時、産湯たらいに入れられて玉川に流され、下流で待ち受けた叔母に拾われ養育された。ここに彼は、自分をまぶかなかった父母の慈愛に感じ、奮然としてこの社会の悪弊に立ち向かい、県下を回って堕胎と褥殺を止めようと呼びかけていた。彼の運動はかなり効果があったとはいえ、貧困の中に生まれた子や、戦争遺児などの生い立ちは、実に暗いものであった。

 一方、八雲龍震は嘗て宇都宮の監獄において1年間教悔師を勤めたことがあったが、その後明治33年、藤岡吉平と提携して出獄者保護を目的とした給産会をつくった。そして犯罪者を通して幾多の悲惨な家庭の実情を識り、親に見捨てられた孤児や寄るべない遺児は何としても救済されねばならないと痛感した。

 明治39年10月、意を同じくしてきた藤岡吉平が丙午の年に死んだが、八雲夫妻は決然として同年11月18日、数枝の誕生日に私立因伯仏教孤児院を妙寂寺内に創設した。その時すでに3名の孤児を抱え、翌40年から大正末までは常に20ないし30名の院児がいた。

 孤児院の企画には面倒な規準があったが夫妻は戸嶋益蔵の寄付に力を得て、院舎として木造瓦葺2階建て29坪7合5勺、付属建物5坪2合5勺、各一棟を境内東南の一角に建てた。これは本堂建立を思い止めての一大英断であった。

 ようやく財団法人因伯保児院として認められたのは創設7年目明治45年1月20日の事であった。しかし龍震は僧職に追われ数枝は龍震を助けて院の管理者、庶務・保育係りから飯炊き・ムツキ洗いやつくろい物までやりとげた。その上に9人の子どもが生まれたが、実子と院の子どもとの区別は絶対しないという方針のもとに、食事・服装・学用品なども同じもので通させた。

 ある明け方、猫のなき声が山門の方で聞こえたので、行ってみるとそれは赤ん坊の捨て児であった。また、夜中に墓地の石塔の間に4歳男児が寝かせてあったこともある。無惨な親もあるものか、と嘆ずると同時に、困り果てた末のことであろうと思えば引き取らずにはおられなかった。天台宗開祖伝教大師(最澄)の遺言の中に「子供は可愛がって大切にしてくれ、たのむ」という意味のことがあったことを、数枝はよく人にも話し、平凡な寺の奥方としておさまってはいられなかった。

 さて、捨て児の場合には戸籍の編成にも困り警察や裁判所と相談の上生年月日を推定し、命名し、自ら仮親になったりしたが、養父母となって入籍させた者もあった。 明治末期、日清日露の戦いは一応勝利をおさめ全国民万歳を叫んだ。しかしその陰には痛ましい遺族遺児たちが生活戦線にあえぎ、院児は増加していた。ところが、時には不義の間に生まれた嬰児まで持ち込む不実の親もあり、その無責任を思えば「院設立の主旨に反するので」と断りたい所だが、生まれた子供はみな仏の子供と考えて区別なしに収容した。

 世の母は一人の子供の養育にすら精魂をくだき命をすりへらす。ここに数枝はその二十倍三十倍の苦悩を一身に引き受けて立った。この美挙に賛同し、檀家の人達はじめその他各方面から物的な同情もあり、この功績は上聞にも達して大正・昭和を通じて幾度かない内帑金も下賜された。にも拘わらず門前の雀達の中には、名利のために動いたかの如き陰口を叩く者もあった。しかし何としても二十人三十人もの命を育てるためには人知れぬ苦しみがあり、事実は金策に悩んだ結果、数枝の生涯は質屋通いの連続であったことに多くの人は気付かない。

 もともとお寺は葬式・法事丈けのいわゆる「葬式坊主」ではいけない、社会的な働きこそ使命であると考えていた八雲夫妻は、山間僻地の文化啓蒙にも乗り出し、成長した院児達によって楽隊を組織した。小ラッパ・大ラッパ・クラリネット・大太鼓・小太鼓・シンバルなどの数人編成。この楽隊は岡山県との県境の辺りの山村まで巡回した。そして幻灯を映し、幻灯は動く幻灯、活動写真とかわり、その映像を通して人権の尊厳、人間の親愛などを強調した。村を回る楽隊、活動写真、大きい朝顔ラッパの蓄音機などは山村漁村の人たちにとって初めての驚きであり、大きな感銘をあたえた。一行の中に病人でもでると医師につけたばかりでなく、数枝は我を忘れてその看護に当たった。またラッパの練習に口を荒らす子どものためには鶏卵を持たせるなど細かな配慮も怠らなかった。

 寺院会計は別途であり、孤児院会計は終始数枝が克明に記帳し、そのやりくり算段のために眠れない夜もあった。こんな時には実父大円の教訓、「困った時は仏を拝めよ、仏様に仕えご奉仕するのがお前の仕事だぞよ」を思いおこし、入嫁の折に持参したお内仏に向かって念誦した。

 院児は皆良い子ばかりではなかった。中には盗癖の強い子、極度に知能の遅れた子、未熟児・虚弱児、一度引き取られてまた来る児などいろいろな子供の全部を熟知して蔭となり日向となり仏心になって世話をした。例えば冬の夜の炬燵火事から焼け布団、火傷の後始末や夜半におやつをねだる児のための準備、夜尿は毎夜、食事分配から食物の好き嫌い、頑是ない稚児の我がままに耐えて、千手観音か六臂弁財天のような働きに睡眠も充分にとれなかった。

 子供達は成長すると夫々社会の荒波の中に飛び立っていった。しかし同じ人間でありながら、孤児院出身であることに社会の風当たりは強く、そうした事から彼らも劣等感をもってか遠くへ走り再びは顔を見せない者もあった。しかし他に幼童の日を過ごした故郷を、又恩愛の母をもたない人達は折にふれ便りしたり、妙寂寺とこの母を訪ねた。中には尾羽打ちからしその上病気になって帰って来て、再び数枝の温かいみとりの末浄土へ引きとられた人もあった。

 今でこそ人権宣言・児童憲章・社会福祉法などと叫ばれているが、明治中期既に八雲夫妻は身を以ってこの事に当たり、不幸を背負って生まれた子供たちのために生涯を捧げたのである。

 1936年(昭和11年)、創設以来105名の院児を育てた頃、三井報恩会・慶福会等より寄付があり、倉吉市住吉町へ院舎を新築して移転〈30周年記念事業〉。社会福祉法人因伯子供学園と改称されたのは1952年(昭和27年)のこと。

 数枝は雨の日も欠かすことなく、寺から2キロメートルの道を往復して母親代わりをつとめた。その後自分の食事は寺から運ばせて、学園に寝泊まりし、八十歳を超えてからも赤ん坊には添い寝して肌で育てるという慈悲の終生を貫いた。人を心から歓待し、物事凡て善意に解し説明し、常に誠実を旨として「ありがたい、勿体ない」とよく言われていた。したがって周囲から信望も厚く仏教婦人会はもちろん、戦時中は国防婦人会の要職にて活躍、又夫龍震亡き後は方面委員・民生委員に任ぜられ、克くその任を全うした。

 昭和42年春の彼岸の日、数枝は転んで足をくじいた。そして約一年半病床に就く身となった。かくて昭和43年9月27日午後11時、52名の園児を遺し妙寂寺に於いて弥陀の安楽浄土へ招かれて逝かれた。「正しい往生をしたい」という一語がこの世に残された最後の言葉であった。

※参考文献 近代百年 鳥取県百傑伝 「山陰評論社」刊

因伯子供学園概要

名称

社会福祉法人 因伯子供学園

施設名

児童養護施設 因伯子供学園

所在地

〒682-0854 鳥取県倉吉市みどり町3249番地

設立年月日

明治39(1906)年11月18日

ホームページ

http://inpakukodomo.jp/

学園沿革

1906(明39)年11月

八雲龍震師 倉吉市新町3丁目妙寂寺境内に仏教孤児院として創立。

1936(昭11)年6月

倉吉市住吉町に移転。(創立30周年)

1950(昭25)年10月

財団法人 因伯子供学園と改称認可。

1952(昭27)年5月

社会福祉法人に組織変更認可。

1976(昭51)年3月

現在地に全面移転。(創立70周年)

2005(平17)年4月

小規模グループケア開始(創立100周年記念ホーム)

2017(平29)年4月

小規模グループホーム(欅ホーム・楓ホーム)開設

2020(令2)年4月

地域小規模グループホーム(桜ホーム)開設